時間が止まって見える。あなたも経験しているかもしれない【時間の歪み】

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BBC】ある日、サイモン(仮名)が頭痛をやわらげようとシャワーを浴びはじめると、突然、シャワーヘッドから飛び出した水滴が、空中に止まって見えた。

数秒間、水滴の一つ一つがくっきりとフォーカスされて、風圧に押された水滴の形まで鮮明に見えたのだ。普通水の流れというものは、ぼんやりとしか見えないものだが、そのときの光景は、映画の『マトリックス』で弾丸が止まって見えるシーンとよく似ていた。まるでハイスピードフィルムを、スローで再生しているようだった。

翌日、病院に行くと、動脈瘤があることがわかった。途端に、昨日バスルームで見た奇妙なものへの驚きは、命にかかわる心配事にとって変わってしまったが、後に彼はその体験に興味をもった神経学者に、自分の体験談を語ることになった。

シカゴ大学の神経学者 フレッド・ オブシウは、サイモンに会ったとき、とても「明るく、雄弁な人」だと感じたという。けれど後になってわかることだが、これはもともとのサイモンの性格ではない。

時の流れとは、実は「錯覚」である

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時間はいつも一定のスピードで流れているように見える。たしかに、時計の測る時間なら、見る人によって数字が違うということはないだろう。

しかし私たちが体で“知覚している”時の流れというのは、実は、脳の編集によってつなぎあわされた“錯覚”に過ぎないのだ。サイモンの体験は、そのことをよく物語っている。

このような体験がどのようにして引き起こされるのか? 脳はなぜこんな時の錯覚を作り出すのか? 研究者たちは様々な症例や実験をもとに解き明かそうとしている。

彼らによれば、私たちはみな、状況によって、時間の歪みを経験しているという。

脳のほんの一部の欠損で、どれだけ時間がたったかわからなくなる

医学文献のなかでは、このような現象に名前がつけられている。

時間が速まる現象は“zeitraffer”

一瞬一瞬が止まって見えるような現象は、“akinetopsia”という。この現象が起こると、動いているものが一時的に止まって見える。

たとえば、旅行していたある女性(61)の目には、近づいてくる電車のドアや、乗客たちの動きが、スローモーションに見えた。

58歳の日本人男性には、目の前の出来事がすべて、コマ数が少なくて動きがカチカチした古い映画のように見えた。人と会話しているときの声は普通に聞こえるのだが、声と見えている相手の口の動きが同期していないというのだ。

オブシウ博士は、ほかにも報告されていないケースはいくらでもあるだろう、という。でも「あまりにもつかの間の体験なので、ほとんどの場合は見過ごされてしまうのです」

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このような現象は、癲癇や卒中にもつきものだ。サイモンはその体験をしたとき、39歳だった。

重い荷物を運んだせいで、弱った血管が切れたのが原因だったと考えられている。右脳の神経に、広範囲にわたるダメージが見られた。

「スキャンしたら、まるで脳のなかに葉巻でも入ってるみたいだった」と、彼は今ではすっかり元気になって冗談交じりに話している。

人間の脳の後頭部のあたりには、ものの動きを認識する場所として知られている、 V5 と呼ばれる視覚野がある。おそらくこの部分が、ものの動きだけでなく、時の流れを計測する役割も担っている、というのが研究者たちの考えだ。

スイス、ローザンヌ大学病院のドメニカ・ブエッティは、磁場によってこの部分の働きを鈍らせる、という少々きわどい実験を行った。

その結果、2つのことがわかった。

まず、被験者はスクリーンに映し出された点の動きを追うのが困難になった。

そして、その青い点がどれだけの時間映し出されていたのか、見当をつけられなくなったのだ。

このことからわかるのは、私たちが動きを認識するシステムのなかには、ものがどれくらいの速さで動いているか測るストップウォッチの機能も含まれている、ということだ。脳のこの部分に損傷を受けると、世界は静止して見えることになるだろう。

サイモンの場合は、シャワーが脳の障害を悪化させる引き金になった。お湯を浴びたことで、血液が体の末端にまわってしまい、脳への血流が不足し、機能不全が起こったのだ。

これはあくまで仮説の一つであって、V5 の損傷によって起こる時間の歪みを、すべて説明できるわけではない。脳のほかの部分にも、時間を認識する機能はあるからだ。

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脳はそもそも、映画のフィルムのようにコマ切れのスナップショットとしてものごとを記録している、と考える研究者もいる。

フランス、トゥールーズの脳科学研究所の、リュファン・バンルレンは、こう説明している。

健康な脳は、それぞれ別のコマを、連続したものとして再構築している。でも脳のこの「つなぎあわせる」機能がダメージをうけると、スナップショットの状態でしか見ることができなくなる、というのだ。

このスナップショットのような状態は、実はだれもが何気なく経験している。たとえば、通り過ぎていく車のタイヤが、止まっているように見えることがある。これは脳のスナップショットが、タイヤの動きを十分にとらえきれなくて、錯覚を起こしているからだ。カメラの連続シャッターのタイミングと、タイヤが1回転するスピードが同じだと、どの写真でもタイヤが同じ位置でうつって、止まって見えるのと同じである。

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また、LSD使用者はその幻覚体験を語るとき、よく動く物体の軌跡が見える、と言うことがある。『マトリックス』に登場する弾丸と、少し似た動きだ。バンルレン博士はこれを、脳が古い映像を消しきれないまま、なんとか新しいスナップショットをつなぎあわせている状態なのではないか、と考えている。

死の間際にスローモーションを見るのはなぜか?

そしてなんといっても時間が止まって見える体験談が多いのは、生死にかかわる事故の瞬間だ。ドラマの演出でよくあることだが、おもしろいことに、現実に九死に一生を得た人々の7割以上が、事故が起こっている間、スローモーションで見えたような気がした、と答えている。

それに対しては、記憶によって後づけされているだけだ、という反論もある。強烈な感情のせいで、細部まではっきりと記憶に焼きついているために、そのように感じているだけではないか、というのだ。とはいえ、彼らの体験談には、神経に損傷を受けた患者と共通するところも、たしかにある。

ある列車の技師は、1970年代に衝突しそうになった相手の顔を、いまだにはっきりと思い出せる、と話した。彼は衝突しそうになったとき、映画をゆっくりしたコマ送りで見ているようだったという。だからこそ、相手の顔がはっきりと見えたのだ。

フィンランド、トゥルク大学のバルテリ・アースティラは、スローモーションの場面では、異様なほど頭の回転が速くなっていることも指摘している。ベトナム戦争で飛行機がクラッシュしそうになったあるパイロットは、「前輪がやられて、そのあとのたった3秒間で、機体をたてなおすためにどうしたらいいか、何十通りもの考えが脳裏をよぎった」という。

生死を分けるような状況に対処するために、ストレスホルモンがきっかけになって、脳の処理スピードが反射的に速まるのではないか、とアースティラ博士は説明している。思考と、動きを追う処理速度が速まることで、相対的に、まわりの世界がゆっくり見えるのかもしれない。アスリートのなかには、その能力を磨いている人たちもいる。プロのサーファーが、刻々と形を変える波の上でつねに自分の体勢を的確にコントロールできるように、瞬時に状況を見極めて判断するのだ。

脳によって編集された現実

サイモンの奇妙な体験は1回限りのことだった。彼はその後手術をうけて、完璧に回復している。

しかも、手術は彼に意外な恩恵までもたらした。サイモンは以前は無口なほうで、人見知りも激しかったのだが、手術後にはシャイな性格がどこかに吹き飛び、取材した記者とも気さくに会話を楽しむほどになった。明らかに、前よりも陽気ではつらつとしていた。

本人によると、単に社交的になったというより、話さずにはいられないのだという。彼の妻も、夫が以前よりもおしゃべりで、フレンドリーで、温厚になったと認めている。

私たちに知ることのできる世界は、つねに、ありのままの現実ではない。脳によって編集され、作り変えられた現実だ。それは、脳のほんの一部分の働き次第で、すぐにがらりと変わってしまう。明るくもなり、暗くもなり、ときには時間さえもが消滅する。とてももろく、移ろいやすいものなのだ。

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