
Source: BBC
家の中で耳を澄ませば、時計の針や電化製品の音がするし、一見静かな森の中でも、風の音や遠くの道路の音が聞こえてくる。自然な環境にはいろいろな音が溢れていて、完全な静寂を見つけるのは、ほとんど不可能だ。
しかし、ワシントン州レッドモンド、マイクロソフト本部のビルディング87の奥深くに、ほぼ無音を実現した、“地球上でもっとも静かな部屋”があるという。
【BBC】そこはハードウェアの研究室で、技術者たちは開発中の新製品のテストをするために、音の反響のない部屋を作ったのだ。Surface や Xbox もその中で開発された。2015年には、部屋の静寂はギネス記録を樹立した。
内部で計測されたノイズの音量は、人間の可聴域である0デシベルをはるかに下回る、 -20.6デシベル。(いまいちどういうことだかわかりにくいが、人間の聴力の限界を 0デシベルと想定して、それを下回る音についてはマイナスの数値を使って計測されるそうだ)
これは真空を作るのでなければ、実現しうる限界の数値だという──なぜなら、常温で空気の分子がぶつかりあうことで発生するノイズだけでも、-24デシベルほどになるからだ。
研究チームのマンロー氏いわく、「中に入ってドアを閉めると、ものすごく異様な経験をすることになります。息を止めると、自分の心臓の鼓動が聞こえるし、血が血管を流れていく音まで聞こえてくる。私はそんなにしょっちゅう部屋の中に入っていることはできません」

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外でジェット機が飛んでも気づかない。完璧な防音の仕組み
小部屋は玉ねぎ状のに重なった6つのコンクリートの層の中心にあり、外界からの騒音をシャットアウトしている。それぞれの壁の厚みは 30cmはあり、外部からの騒音を 110デシベルずつカットする。もしビルの前でジェット機が飛び立ったとしても、小部屋のあるコンクリートの最終防壁の内側では、囁き声よりも静かにしか聞こえないという。
人間工学技士のゴーパル氏は「こうした隔離が、外の世界との大きな差を生み出す」と説明している。小部屋の下には、それぞれ独立した基礎の上に設置された68個の振動防止バネがあり、部屋そのものは宙に浮いているような状態だ。「つまり部屋は一か所たりとも、ビルと直接接触はしていないのです」こうした複雑な構造のために、部屋を設計して完成させるまでには、およそ2年の歳月がかかったという。最適なを環境の物件を探すのでさえ、8か月も費やした。
小部屋は、一辺が 6.36mの立方体だ。6つの壁面の内側は、長さ1.2mのくさび型の防音材の寄せ集めでできていて、これが内部で発生する音が反響するのを防いでいる。床は金属のケーブルでできていて、(このケーブルはジェット戦闘機が空母に着陸するときに使うのと同じものだ) トランポリンのように編んで、防音材の上に張られている。
ドアを閉じきってしまうと、小部屋そのものや、そのまわりを何重にもとり囲んでいる壁が、外からの音漏れを防ぐ。また、ゴーパルの研究チームは、部屋とその周りのコンクリート壁との間にある 1.2mの隙間に、特製のエアコンとスプリンクラーを吊るした。

部屋の中は静かなので、自分の関節の動く音すら聞くことができる。 Source: BBC
この無反響の部屋そのものは、製品化されていていて、意外にも購入可能だそうだ。が、実際に使われている部屋では、部屋本体だけでなく、こうした部屋に望ましくない騒音を与えてしまう備品にまで、細心の注意を払っている。「スプリンクラーや、ドア、特別な換気システム、など。それら多くのものがあわさって、この空間を特別なものにしているのです」
これほどまで厳重に保たれた静寂の中に身を置くのは、一体どんな心地がするのだろうか? 研究チームのゴーパル氏は以下のように説明している。
究極の静寂がもたらす、異様な体験
そんなに静かなら、きっと心穏やかなものに違いない、と大抵の人は思うかもしれない。でも部屋の中で過ごした人たちは、心の平安とは程遠い、という。ゴーパル氏はマイクロソフト社見学ツアーの客たちを、無反響室に案内することがある。すると多くの人は、不快感を訴えるのだ。
「何人かの人は、数秒以内に外に出たくなります。とにかくこんなところにはいられない、と言うのです。ほとんどすべての人が、落ち着きを失います。部屋の中にいる他人の息遣いや、胃腸の動く音まで聞こえてしまうのですから。中にはめまいを感じる人もいます」
これは日々猛烈な騒音にさらされている私たちが、ほんのつかの間ノイズから解放されたことで起こる、奇妙な反応のようにも見える。しかしブリティッシュコロンビア大学で感覚欠乏について研究している心理学者、ピーター・スードフェルド氏は、この部屋に入ることと真っ暗な部屋に入ることを比較して、こう指摘している。
「私たちはまわりの世界が生み出す音の反響に慣れています。この部屋の中にあるのは、死んだ音だけなのです。ちょうど真っ暗な部屋に入っていくのと同じで、はじめは何も見えませんが、次第に目が慣れていくのです」
普段体の音をかき消している外界からのノイズがなくなることで、関節の動く音が聞こえたり、耳が聞こえなくなるような耳鳴りに襲われる、といったことが起こる得る。しかしゴーパル氏は、そんな部屋での体験を楽しめる人もいるという。
「この部屋の静寂を、瞑想的だと言って、好む人もいます。そういう人たちはリラックスしているように見えますが、私が今まで見た中で、一番長くいた人でもせいぜい1時間です。そしてそういう人は、寄付金の金額が上がりますね。私が思うに、ここに長居しすぎると、気が狂ってしまうでしょう。この中では、唾を飲みこむだけでもとてもうるさいのです」
実際、この静寂を使って医学的な実験も試みられていて、いくつかの調査結果は、一時的な感覚欠損が、精神病の症状や幻覚を誘発する、と示している。

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けれども技術者たちにとっては、この静寂は、人間の体のきしみを聞いたり、心の反応を観察したりするよりも、もっと実用的な使い道のあるものだ。現在この小部屋は、よりノイズの少ないコンピューター基盤の開発や、快適なキーボードの音のチェック、さらには HoloLens (ゴーグルタイプの画面)にあわせたバーチャル3Dサウンドの実験などに大活躍している。
マンロー氏によると、静寂の部屋の一番の醍醐味は、部屋を出た後に起こるという。
「ドアを開けた途端、滝のような音の洪水に耳を打たれます。まるで別世界に踏み込んでいくような感じがするでしょう。普段は気づかないような音にも気づいて、新しい世界が見えてきます」