
博物館には偉人の愛用していた品などが置かれることがあるが、アメリカ、ミシガン州ディアボーンにある「ヘンリー・フォード・ミュージアム」では、偉人にまつわる前代未聞のものが展示物になっている。
試験管に収めて陳列されているのは、発明家トーマス・エジソンの「最期の息」だ。
エジソンといえば電球の発明者。この博物館の創始者であるヘンリー・フォードは、世界で初めて自動車の大量生産を実現し、それまで高価すぎて富裕層だけのものだった自動車を、爆発的な勢いで大衆にまで広めた人物だ。
そのフォードの博物館に、なぜエジソンの「息」があるのか?
試験管に添えられた解説には、こう書かれている。
ただし、試験管が封印されることになった経緯については、もっとおもしろい伝説も残されている。
エジソンとフォードの関係は、フォードが自動車業界で成功するよりも、ずっと前からはじまっていた。エジソンが国民的発明家になっていたころ、フォードはまだ電気も通っていない田舎町の少年だった。エジソンのようになりたい、と憧れていた彼は、28歳でエジソン照明会社(Edison Illuminating Company of Detroit)に入社。2年後には主任技術者を任されている。

そのころのフォードは、エジソンの会社で生計を立てながら、プライベートで、自作の自動車の製作に取り組んでいた。初めて完成した自動車は、四輪の自転車に座席がついたような簡素な見た目だった。が、会社のパーティーで初対面したエジソンに、フォードが新しい自動車のことを話すと、エジソンは感銘を受けてフォードを勇気づけたという。
そして、それが励みになったのか、フォードは2年後には2台目の自動車を完成させる。さらに翌年には、自分の自動車会社を設立するまでになった。(このとき設立した会社「デトロイト自動車会社」は、あまり成功しないまま解散している。有名な大量生産モデル「T型フォード」を販売したのは、のちに設立された「ヘンリー・フォード・カンパニー」である)
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(1921年、キャンプにて) source:wikipedia
フォードがエジソン社を辞めた後も、2人の交友はずっとつづいた。
「発明王」と呼ばれたエジソンは、学校になじめず、独学で知識を身につけた努力の人として有名な一方、富を得るために汚い手段を使ったことでも知られている、クセある人物だ。
そんなエジソンも、フォードとはとても仲がよかった。
1914年から1924年にかけて、2人は毎年、車でキャンプ旅行に出かけていた。エジソンが車椅子生活になってしまうと、フォードも自分用の車椅子を一つ買った──それで一緒に車椅子レースをするためだ。
電球の発明の50周年を記念するパーティーで、エジソンは言った。
「ここにいるフォードのことでは、私の感じていることを、言葉では表現しきれません。言えることがあるとしたら、心からの意味をこめて、彼は私の友達だ、ということです」
糖尿病の合併症が悪化して、エジソンの死期がいよいよ迫ってくると、フォードはエジソンの息子チャールズに、かなり変わったお願いをした、と伝えられている。
エジソンが亡くなる時、試験管を口もとに持っていって、最期の一息をとっておいてほしい、と頼んだのだ。最期の一息と一緒に魂が体から抜けていくから、将来蘇生できる方法が見つかった時のために、魂を試験管に入れておいてほしい、と。
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科学・技術のパイオニアというイメージと真逆のようだが、フォードもエジソンも、オカルト的なものに関心を持っていて、降霊術を信じていた。エジソンは「魂もエネルギーである」と考えていて、彼の中では、「死後もエネルギー(魂)が存在し続ける」ということと、科学的な態度は、とくに矛盾するものではなかったようだ。晩年のエジソンは、霊界と交信できる通信機を作ろうと研究を重ねている。
息子チャールズは、さすがに臨終の瞬間に試験管を口に持っていくことはしなかった。だが、ベッドのそばには、8本の試験管が収められたスタンドが置かれていた。チャールズは、エジソンが亡くなるとすぐ、付きそいの医師に、試験管をパラフィンワックスで封印するように言った。
それから、その試験管の一本を、フォードに送ったのだ。
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この一見空っぽのように見える試験管には、目に見えない遺品とともに、2人の発明家の友情と、一風変わったエピソードが詰めこまれている。
【参考】Atlas Obscura:Edison’s Last Breath at the Henry Ford Museum
Wikipedia:トーマス・エジソン、ヘンリー・フォード、Thomas Edison
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